それはコーチングなのか──私が感じた違和感

爽やかな、風薫る一日。
この土日は、実践と学びがぎゅっと詰まった二日間だった。
そんな中、3週間ほど前の日経新聞の書評欄の記事が目に留まった。
一部を引用すると――
指導者が当事者に一方的にレクチャーし、本人がこれまでの認知を改めて自己変革すれば、状況は改善するという押しつけがましい実践になっているのだ。本書のスタンスは、そのような当事者研究の誤った運用をやんわりと諭している。
この一文には、強く共感した。
誰しも認知の歪み、すなわちバイアスを持っている。
コーチングは、そうした前提や捉え方を見つめ直し、
自己理解を深めていく営みでもある。
これまで当たり前だと思っていた考え方を客観視することで、
新たな捉え方が生まれることもあれば、
過去の経験や環境によって形づくられた歪みに気づくこともある。
自分の弱さや、目を背けたくなる部分。
欠けていると感じているところ。
そうしたものを、勇気を持って言葉にすることで、
自分をより深く理解し、受け入れていく。
そしてそれは、他者理解にもつながっていく。
このプロセスには、完成形はない。
おそらく一生を通じて続いていくものなのだろう。
私はよく、
コーチとは「水辺へと伴う存在」だと感じている。
これまで見えていなかった自分の影や弱さを、
水面に映し出して見せてくれる場所へと導く存在。
そこに立つためには、
本音を安心して話せる関係性が欠かせない。
そして、水面に映った自分とどう向き合っていくのか。
そこから先も、対話を通して、あくまで相手中心に関わり続ける。
それがコーチの役割だと思っている。
だからこそ、違和感を覚える。
それは、「押しつけがましい実践」という指摘そのものではなく、
そのような関わりが、コーチングの名のもとに行われてしまうことに対してだ。
せっかく水辺にたどり着いたその瞬間に、
「これからはこのやり方に従ってください」
とコーチが主導し始めてしまう。
クライアント中心であるはずの関係性が、
いつの間にかコーチ主導へとすり替わってしまう。
それがノウハウであり、価値であり、成果の源泉だと
語られることもあるのかもしれない。
その意図は理解できる。
それでも私は、
それが「コーチングとして適切か」という問いに対して、
十分に応えているとは思えない。
自分の弱さに向き合い、
自分の力で乗り越えていける自分を育てていくこと。
そのプロセスに寄り添い続けること。
それを支えるのが、
コーチの役目なのだと、私は思っている。
コーチングは、人を変える技術ではなく、
人が自ら変わっていく力に伴う営みなのだと思う。
