「分かり合えなさ」を描く物語から、対話の意味を思う

このところ、本格的な冬が続き、空気がひんやりと冷たい。
梅の花がほころび始め、春は近づいているはずなのに、
東風はまだしばらく先になるらしい。

気がつけば1月ももう終わり。
お正月気分はあっという間に抜けたが、
一カ月が過ぎる早さに、あらためて驚かされる。

さて今日は、最近読んだ小説の話を書いてみようと思う。

ノーベル賞作家カズオ・イシグロの
『遠い山なみの光』に続き、
長編『充たされざる者』を、いずれもAudibleで聴いた。

イシグロ作品を読了したのは、今のところこの二冊のみ。
その上での、あくまで私なりの感想である。

この二冊に共通して強く感じたのは、
登場人物のあいだに横たわる、深い「分かり合えなさ」だった。

登場人物たちは、犯罪を犯すような極端な悪人ではない。
ただ、どこか「利己的」――
いや、「利己的すぎる」と言った方がしっくりくる。

そこまで言う? そこまでやる?
『充たされざる者』に描かれる利己は、
もはやコメディではないかと感じるほどだ。

その独善さにあきれながらも、
登場人物の多くが利己的であるがゆえに、
「分かり合えなさ」が物語の底を這い続け、
読中も読後にも、どうにも居心地の悪さがまとわりつく。

それでも、ほんのほんの一瞬、
忘れた頃に「利他」の人が現れる。
その存在によって、かすかな安心感が戻り、
読者もまた、先に進もうという気持ちになる。

おそらく、「分かり合えなさ」こそが、
イシグロ作品の大きなテーマなのだろう。

「分かり合えなさ」の世界では、対話は起こらない。
一方的に話す。
偉そうに助言する。
相手を憶測し、決めつけ、なじり、攻撃し、批判する。

関係性は修復されることなく、
人はそれぞれの孤独へと向かっていく。

「分かり合えなさ」は、決して物語の中だけの話ではない。
日常のあちこちで、当たり前のように起きている。

だからこそ、対話をすること。
相手を思いやりながら、言葉を交わすこと。

この二冊の小説に出会い、
対話の意味と、その重要さをあらためて噛みしめることができた。
そんな読書体験に、静かな感謝の気持ちが残っている。

シェアする