トップにとっての『健全な鏡』でありたい

8月も終わりに近づいた。

川沿いにはすすきが茂り、とんぼがすいすいと飛んでいる。
猛暑はまだ続いているけれど、季節は少しずつ秋へ向かっている。

 

以前にも書いたが、今、読書会に参加して『失敗の本質』を読み進めている。

先の戦争における手痛い敗戦――ノモンハン、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄など――を取り上げ、戦略や組織という観点から、その失敗を分析した本である。

何十年も前に一度読んだことがあるが、記憶に残っているのはほんの一部だった。

今回は読書会という場で読み進めているからこそ、理解も深まるし、他の方の考えから気づかされることも多い。

悲惨な歴史だからこそ、そこから何かを学び取りたいという気持ちも湧いてくる。
おそらく一人では、ここまで丁寧に読み進めることはできなかっただろう。

まだ読了してはいないが、ここまで読んで強く感じていることがある。

 

それは、どれほど高い地位にある人であっても、人はいつも合理的に判断し、行動できるわけではないということだ。

司令長官、大将、中将といった高い地位にある人なら、豊富な経験と理性をもって合理的な判断を下すはずだ。

私たちは、どこかでそう思いがちなのかもしれない。

 

しかし、読み進めていくと、必ずしもそうではないことが見えてくる。

思い込みや固定観念、過去の成功体験、組織内の力関係、そしてさまざまな感情。

人は、そうしたものに捉われながら意思決定をしている。

トップだからといって、それらから自由になれるわけではない。

むしろ、トップの判断に異を唱えることが難しい組織であれば、その影響はさらに大きくなる。

当時であれば、トップに進言すること自体が時に命がけだったのだろう。
保身を考えれば、何も言わないという選択も当然起こり得る。

そう考えると、トップが常に合理的であることを期待するよりも、

トップもまた思い込みや感情に捉われる存在であることを前提に、どうすれば意思決定の質を高められるのかを考えることの方が大切なのではないかと思えてくる。

 

そんなことを考えながら、ふと徳川家康を思い出した。

家康は、自分に遠慮なく諫言する本多正信を傍に置いたという。

自分とは異なる見方をする人、時には耳の痛いことを言ってくれる人を傍に置く。

『失敗の本質』を読みながら、トップにとってそれがどれほど大切なことなのかを改めて感じた。

 

さて、私はエグゼクティブコーチとして中小企業の支援に携わり、経営トップの相談役になることがある。

もちろん、相手は私にとって大切なクライアントであり、スポンサーでもある。

だからこそ、迎合するのではなく、私はトップにとっての「健全な鏡」でありたいと思う。

トップ自身には見えていないものを映し、時には耳の痛いことも、私心なく率直にお伝えする。

それはトップのためであり、その先にいる社員や、支援先企業の成長のためでもある。

 

相手を尊重することと、相手に合わせることは違う。

敬意を持ちながらも、必要なことはきちんとお伝えする。

『失敗の本質』を読み進めながら、あらためて、このあり方だけはどんな時も大切にしていきたいと思った。

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